
松坂季実子
松坂季実子
【AV界に「巨乳」という革命を巻き起こした伝説のHカップ美女】
1989年、日本のAV業界に突如として現れ、瞬く間に「巨乳ブーム」を巻き起こした松坂季実子。
彼女の登場は、まさにセンセーショナルであり「巨乳」という言葉が一般に広まったのも、彼女の存在があったからこそと言われています。
人気絶頂期には、アメリカの大手通信社AP通信がその人気ぶりをニュースとして世界に配信したほど。
今回は、わずか1年余りの活動期間ながら、AV史に強烈な爪痕を残した松坂季実子の輝かしい軌跡と知られざるエピソードを紹介します。
【普通の女子大生からHカップの衝撃的デビュー】
松坂季実子は名門・大妻女子大学短期大学部に在学中、業界関係者からスカウトされ、1989年にAVの世界へと足を踏み入れました。
当初は、就職前に1本だけの出演予定だったといいます。
しかし、そのAV出演が周囲に知られたことをきっかけに、本格的にAV女優としての道を歩むことになりました。
スカウトされた当時は、後に「1980年代最大のAV女優」と称されることになるとは誰も予想できないほど、ごく普通の女子大生だったそうです。
しかし、ひとたび服を脱ぐとその印象は一変。
彼女のHカップ(B110.7cm)とも言われる豊満な胸を見たAV関係者たちは、裸を見慣れているはずなのに息をのむほどの衝撃を受けたといいます。
その場には、AV界の巨匠である村西とおる監督も居合わせていました。
村西監督による松坂季実子の発見こそが、伝説のAV女優「松坂季実子」誕生の瞬間だったと言えるでしょう。
【ダイヤモンド映像の救世主「巨乳の日」が社会現象に】
松坂季実子は、村西監督率いる「ダイヤモンド映像」の専属女優として活動を開始します。
当時、業績が悪化し倒産寸前だったダイヤモンド映像でしたが、彼女という逸材の発掘によりまさにV字回復を遂げました。
「毎月1日は巨乳の日」というキャッチコピーと共に、松坂季実子さんの作品は次々とリリースされ、そのどれもが数千本から1万本という驚異的な売り上げを記録。
世の中に一大「巨乳ブーム」を巻き起こし、AVのいちジャンルとして「巨乳もの」が確固たる地位を築くきっかけとなりました。
彼女の作品は、どこかアンニュイな雰囲気を漂わせ「大人の女性」を感じさせるものが多かったと言われています。
女医や高級官僚、プロゴルファーなど、様々な役柄に挑戦し、そのいずれもが彼女の豊満なバストを最大限に活かした作品でした。
【コンプレックスから自信へ~メディアでも大活躍】
思春期の頃から、その大きな胸にコンプレックスを感じ、好奇の視線に悩まされることもあったという松坂季実子。
しかし、AVに出演したことで「自分の長所だと思えるようになった」と雑誌のインタビューで語っています。
活動中はメディアへの露出も多く『週刊大衆』では「『乳姫』がせまる!! 110センチぶるりん対談」や「松坂季実子の乳'sステーション」といった対談企画を長期連載し、各界の著名人と交流を深めました。
また、人気深夜番組『オールナイトフジ』にレギュラー出演し、彼女の胸と男性の顔で風船を挟んで割るコーナーはお茶の間の人気を博しました。
1990年4月には、テレビ朝日のドラマ『高円寺純情商店街』に出演するなど、活動の幅を広げていきます。
【突然の引退、そしてOLへの転身】
しかし、人気絶頂の最中であった1990年10月、松坂季実子さんはリリースした作品を最後にAV業界からの引退を発表します。
その嵐のような活動期間は、わずか1年半ほどでした。
AV引退後は、1990年夏にバラエティタレントへ転向し、同年11月にはラサール石井さんとデュエットシングル「ソレソレどうするの?」を発売するなど、新たな道へと進むかと思われました。
しかし、1991年春には芸能界からも完全に引退。
その背景には、個人的な問題があったと報じられています。
その後、彼女の姿は週刊誌によって捉えられました。
『フライデー』(1993年9月24日号)にはOLとして通勤する様子が本人のコメント付きで掲載され『週刊ポスト』(1996年7月26日号)では広告代理店に派遣社員として勤務する様子が報じられました。
「あの人は今」といった企画で、その後の去就が度々話題となるなど彼女の存在は引退後も多くの人々の関心を集め続けました。
【現在は穏やかな家庭を築いて】
2020年6月現在、松坂季実子さんは50歳を迎えられています。
現在は公の場に姿を現すことはありませんが、きっとあたたかい家庭を築き穏やかな日々を送られていることでしょう。
彼女がAV界に残した「巨乳」という衝撃は、今もなお鮮明に記憶されています。
短い活動期間ながら、時代を象徴する存在としてその名は永遠に語り継がれていくに違いありません。
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