
憂木瞳
憂木瞳
90年代を代表する名女優・憂木瞳について語ろうと思います。
【デビューから多岐にわたる活動初期】
憂木瞳は、1990年代前半を代表するAV女優の一人でした。
1992年12月に「危ない寄り道帰り道」という作品で鮮烈なデビューを飾りました。
当時、美容専門学校に通っていた彼女は新宿でスカウトされたことがきっかけで、AV業界へ足を踏み入れました。
デビュー後、1993年には「中山アンナ」へと名義を変更し、一時期は「憂木瞳」と「中山アンナ」の両方の名義で活動。
さらに「工藤あずさ」という名義でグラビアアイドルとしても活躍の場を広げており、その多才ぶりを発揮していました。
【「ギルガメッシュないと」での大ブレイク】
1993年半ば頃から憂木瞳はAVのみならず、地上波テレビ番組や映画にも出演するなど、活動の幅を大きく広げました。
彼女の人気を不動のものにしたのは、深夜の人気番組「ギルガメッシュないと」への出演でした。
番組内のコーナー「夜食バンザイ」で見せた裸エプロン姿は、社会現象ともいえるほどの大きな反響を呼び、一躍アイドル並みの人気を獲得しました。
その勢いはとどまることを知らず、1993年12月17日には、タレントのイジリー岡田と共に「マンゴ・ナタ・デ・ココ」というシングルCDをリリースするまでに至ります。
さらに、1994年3月には「ギルガメッシュないと」の企画で浅草ロック座にストリッパーとして特別出演し、1000人以上の観客が殺到するほどの熱狂ぶりを見せました。
【人気絶頂期の突然の引退と真相】
しかし、人気絶頂の最中であった1994年4月「ギルガメッシュないと」の収録中に急病で病院に搬送されるという出来事がありました。
さらに同年6月には、収録現場に姿を現さないという、いわゆる「すっぽかし騒動」が起こり、そのまま彼女の消息は不明となってしまいました。
所属事務所は6月に急遽引退を発表。
当時は病気説など様々な憶測が飛び交いましたが、後にご本人がインタビューで引退理由を語っています。
体調不良説に関しては「椎間板ヘルニアは持病でしたが、AVの仕事ができないほどではありませんでした」と否定し、本当の理由は「テレビの仕事は朝早くから夜遅くまで拘束され、2日分しか撮れないこともありました。とにかく忙しくなる一方で自分の時間が全くなく、それが嫌だった」と、多忙な日々への不満だったことを明かしています。
また、真相が明らかになり始めた1995年には妊娠していたことも判明しました。
【度重なる復帰と名義変更】
多忙な毎日に嫌気がさし、一時は日焼けサロンを経営していた憂木瞳ですが、後に復帰を果たします。
1995年頃のインタビューでは「復帰は考えていない」と断言していましたが、そのわずか3ヶ月後には復帰を考えているとコメントしていました。
そして1995年5月には「ギルガメッシュないと」に復帰。
同年6月には浅草ロック座でストリッパーとして本格的にデビューを飾りました。
2002年には「憂木ひとみ」と芸名を変えてAV業界にも復帰しましたが、2003年にはAV女優としての活動を一旦終了。
しかし、2004年からは再び「憂木瞳」に名義を戻し、AVに復帰。
スローペースながらも作品のリリースを続けました。
そして2012年には、「石黒樹里」という新しい名義で熟女女優として再デビューを果たします。
ただ、この時の彼女の姿は、若い頃の憂木瞳とは印象が大きく異なっていたため、同一人物かどうか疑う声も少なくありませんでした。
【現在の憂木瞳】
石黒樹里としても2013年以降は新作のリリースがなく、現在の活動状況については不明です。
憂木瞳名義のXアカウントが存在するものの、ツイート内容が非公開のため、ご本人のものかは確認できません。
1996年4月にお子さんが生まれていることがインタビューで語られており、現在は女優業を引退し、穏やかな生活を送っている可能性が高いと考えられます。
【記憶に残り続ける名女優】
90年代を彩った名女優、憂木瞳。
その波乱万丈な女優人生と、AVの枠を超えてお茶の間をも賑わせた彼女の存在感は、今もなお鮮烈です。
石黒樹里さんとして再出発後の活動は見られず、今後の復帰の可能性は低いかもしれません。
しかし、若い頃の輝かしい憂木瞳から、新たな魅力を見せた石黒樹里さんに至るまで、どちらの彼女も多くの人々の記憶に深く刻まれていることでしょう。
90年代を語る上で欠かせない女優の一人として、その功績はこれからも語り継がれていくに違いありません。
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