
後藤えり子
後藤えり子
【バブルの狂騒に咲いた「元祖・清楚系」の衝撃 / 一国の王子をも虜にした伝説の女優】
80年代後半、バブル経済が頂点へと向かう狂騒の中で、AV界に一陣の清風を吹き込んだ女優、村上麗奈。
グラビアアイドルから華麗なる転身を遂げた彼女は「元祖・清楚系AV女優」として、それまでの業界のイメージを塗り替え、国内外に鮮烈な印象を残した。
今回は、わずか1年という短い活動期間ながら、今なお語り継がれる彼女の伝説と、知られざる国際的なエピソードに迫ります。
【お嬢様学校出身、本物の気品と禁断の裸体】
村上麗奈の魅力は、まずその育ちの良さからくる、他の女優とは一線を画す「気品」にあります。
お嬢様女子校として名高い「山脇学園」出身という経歴は、当時のAV業界において異彩を放っていました。
高校卒業後、グラビアモデルとして活動を開始し、1988年には写真集『村上麗奈写真集 熱風』で大胆なヌードを披露。
その透き通るような美しさと、どこか儚げな表情は、多くの男性を惹きつけました。
そして同年、AV作品『発情伝説』で衝撃のデビューを飾る。
AV黎明期と呼ばれたこの時代、業界の土台がまだ形成されていない中で、彼女のような本物のお嬢様がAVに出演するということは、相当な覚悟が必要だったはで、ひとたびカメラの前に立てばその清楚な佇まいとは裏腹に、日本人離れした抜群のプロポーションと、肉付きの良いフェロモン溢れる肢体を惜しげもなく晒しました。
特に、当時の女優としては大きくて形の良いバストは、多くのファンを熱狂させました。
【見た目とプレイの衝撃的ギャップが生んだ伝説】
村上麗奈の真骨頂は、その見た目とセックスシーンで見せる姿との「ギャップ」にあります。
お嬢様然とした清楚な雰囲気からは想像もつかないほど、カラミは激しく乱れ、時に淫靡な表情を見せました。
このあまりにも大きなギャップは、「品のある女性が乱れる」という、当時まだ希少だったシチュエーションを完璧に体現し、瞬く間に彼女をトップ女優へと押し上げました。
活動期間はわずか1年ながら出演作は34本にものぼり、その人気ぶりを物語っている。「この時代を知る人で彼女を知らない者はいない」と言われるほど、彼女の存在は鮮烈でした。
【人気絶頂での引退、そして新たなステージへ】
しかし、人気が最高潮に達していた1989年、村上麗奈は突如としてAV女優を引退。
その理由は明かされぬまま、ファンに大きな衝撃と落胆を与えました。
だが、彼女の物語はここで終わらず、その類まれなる美貌とスタイルを活かし、AV引退後は新たなステージへと進む。
1990年5月には、日本最大手の名門ストリップ劇場「浅草ロック座」の専属ストリッパーに転身。
AV女優がストリッパーとして活躍する先駆け的な存在となり、その人気はストリップ界でも絶大でした。
彼女の舞台を一目見ようと、全国の劇場は連日満員札止めになったといいます。
さらに、この時期にはVシネマや香港映画にも出演し、女優としてのキャリアも築き上げていきました。
特に香港映画への出演は、アジア圏での知名度と人気を高めるきっかけに。
【ブルネイ皇太子を虜にした夜 ― 国境を越えたスキャンダル】
村上麗奈の伝説は、国内だけに留まりませんでした。
1989年、昭和天皇崩御に際し、世界各国の要人が日本を訪れ、その中に東南アジアの小国・ブルネイの皇太子(現国王)の姿がありました。
そして、驚くべきことに皇太子たっての希望で、村上麗奈がその夜の相手に選ばれたのでした。
このスキャンダラスな事実は、後に村上麗奈本人が週刊誌のインタビューで語っており「一晩500万円で相手をした」という衝撃的な内容と共に、世間を騒がせました。
一国の王子をも虜にするほどの魅力、それが村上麗奈という女優の底知れぬ魔力だったのかもしれません。
【結婚、そして穏やかな現在】
ストリッパーや女優として活躍を続けていた村上麗奈だが、1997年頃に結婚を機に全ての活動から引退。
現在は、ストリップ時代のお客さんと結婚し、大阪に在住。
大阪・難波のラジオDJなど、ローカルタレントとして不定期ながら表舞台に立つこともあるといいます。
【永遠に語り継がれる「元祖・清楚系」】
バブルという時代の熱狂の中で、清楚という新たな価値観をAV界にもたらした伝説の女優、村上麗奈。
その気品溢れる美貌と、大胆なプレイとのギャップは、今もなお多くのファンの記憶に鮮明に刻まれています。
短い活動期間ながら、彼女が残したインパクトは計り知れません。
懐かしい青春時代を思い起こさせる、永遠のアイコンとして村上麗奈の伝説はこれからも語り継がれていくことでしょう。
関連記事